『富坂だより』 36号
 2015年12月



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  巻頭言
「原発被災地訪問で、見えたこと、見えないこと」  
鈴木喜六


 私は、4月25(土)〜26(日)日にかけて、原発被災地である福島県南相馬市の日本基督教団原町教会などを訪問してきました。

 南相馬を訪問した理由は、放射能の為に復興は進んでいないのではないかとの疑問をいだいていたことでした。昨秋ようやく、現地の今野畜産の今野様と知り合いになり、訪問が実現したものです。ようやくの実現ですが、日本中の関心が薄れつつある今こそ、訪問は好ましいという思いもありました。

 南相馬での訪問先は、今野様の案内で津波に流された集落の跡地、1階部分だけが流出した住宅、生活禁止地域などでした。夕食の時間には、地元の企業経営者の方などからその思いを伺うことが出来ました。同業者の多くが、将来が不透明で経営の意欲も高まらないなどのお話もありました。

原町教会では、聖日礼拝に出席できました。中野伝道師の胸や保育園庭の放射能測定器、「放射能測定結果=分析機関原町教会」の資料などを拝見して、大きなショックでした。

礼拝後の教会総会にも陪席できましたので、皆様のご様子をよく知ることが出来ました。一年間の無牧時代のしっかりした活動を役員から中野先生に報告する進行でした。

 見えたこととしては、原発被災地の押しつぶされるような放射能の影響、復興の大幅な遅延や皆様の悩み、でもその中でも前向きに考えておられる様子でした。ほんの一部ですが現地で直接に接触できたことはとても満たされた思いでした。

 今になっても見えないことは「現地訪問は必要だったのか」です。原発被災地を理解するためには、客観的な情報を丁寧に分析し冷静に思考すべきだと思うのですが、今の私にはそれだけの判断力がありません。

 だからといって今回のように現地での体験で判断すると、狭い範囲の印象評価になってしまうからです。物事を正しく判断することのむずかしさを痛感しています。これは原発被災地以外にも当てはまるかもしれない、そんな迷いを抱きつつも、あの方々にお会いするために再度訪問したいと願っています。

(すずき きろく/当法人監事)




「戦中・戦後の日本の教会 戦争協力と抵抗の内面史を探る」研究会の発足
  研究会座長 戒能信生


 戦後70年を数える今、この国は再び「新しい戦前」を迎えようとしています。秘密保護法の成立、武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権の解釈変更といった矢継ぎ早の政治的動向のみならず、中国や韓国、北朝鮮など東アジア諸国との対立と緊張が高まり、さらに新たな民族主義や排外的気分に覆われつつあります。

 富坂キリスト教センターは、土肥昭夫先生を中心に「近代天皇制」共同研究を三期にわたって継続し、近代日本の歩みとキリスト教との関わりを、天皇制を軸として歴史的に検証して来ました。その成果を踏まえつつ、これまでの包括的な研究では触れ得なかった個別研究、すなわち戦時下をくぐり抜けたキリスト者たちの内面に分け入って、それぞれの信仰と時代局面との矛盾や葛藤を抉出することを試み、歴史的諸相をより精確に把握する必要があります。

 そのことを実証した学際研究の一つが、H・E・テートの著書『ヒトラー政権の共犯者・犠牲者・反対者―〈第三帝国〉におけるプロテスタント神学と教会の〈内面史〉のために』(創文社、2004年)です。この共同研究は、戦争「協力者」や「抵抗者」といった一面的な評価を克服する方法として、個々人の内面の歩みに注目しています。個々の内面史(当事者の心の葛藤、相克や矛盾など)を検証することにより、十把一絡げの評価や決めつけを乗り越え、ナチス政権下におけるキリスト者たちの動向、すなわち追随・加担・協力、そして沈黙・拒否・抵抗の諸相を重層的に跡づけようとする試みです。この国においても、戦後『思想の科学』を中心に広範な「転向研究」がなされていますが、その視点や方法がキリスト教史研究には必ずしも織り込まれて来ませんでした。とりわけ、東アジアのキリスト者たち(在日も含めて)との関わりでの検証は依然として不十分なままです。すなわち、戦時下において日本の教会とキリスト者がその時々にどのように時代を認識し、順応と抵抗との間を揺れ動いたのか。また植民地統治下のアジアのキリスト者たちが日本の教会に何を期待し、あるいは期待しなかったのか。そして日本の教会はそれにどのように応えたのか、応えられなかったのか。この研究会の視座は、戦時下における日本、台湾、朝鮮、中国のキリスト者たち、さらに女性、子どもたちの目に、それはどう映っていたかにも向けられます。

 従来議論されて来た「福音と律法」「信仰と行為」といった神学的な枠組み、あるいは「世俗化と宗教化」の二項対立からだけでなく、戦時下をくぐり抜けたキリスト者一人一人の内面史に分け入り、その葛藤と挫折に寄り添いながら、今日における神学的・信仰的な課題を汲み取っていくことを目的としています。それこそが、現在の東アジアの教会とキリスト者たちの眼差しに応える私たちの責任であると考えているからです。

 また、この研究会の成果については、学問的な深みを保持しながらも、日本の社会と教会に語りかける語調を探求したいと願っています。学術論文としてだけではなく、「世のためにある教会」としての使命をできる限り多くの人に共有していただきたいと願っているからです。

 研究員は、戒能信生(座長、千代田教会牧師)、李省展(恵泉女学園大学教員)、徐正敏(明治学院大学教員)、渡辺祐子(明治学院大学教員)、上中栄(日本ホーリネス教団鵠沼教会牧師)、大久保正禎(王子教会牧師)、高井ヘラー由紀(明治学院大学研究員)、矢吹大吾(担当主事・四街道教会牧師)の諸氏です。これ以外のゲスト研究員もお招きして、重層的な研究会になることを願っています。

 なお、この研究会は2015年10月から3年間継続し、その研究成果を2019年に刊行する予定です。ご期待ください。

(かいのう のぶお/日本基督教団千代田教会牧師)




「脱原発社会・未来世代への責任」研究会報告
  研究会座長 内藤新吾


   この研究会も開始して最終の三年目となり、あと少しで務めを終えようとしています。今年度の二人目の発題を6月にいただきました。長年、原発訴訟に関わられている弁護士の河合弘之氏より、「原発と宗教と倫理」と題して、大へん力強いメッセージをいただきました。氏は最近、映画監督としても全国各地を飛び回っておられます。原発の真実を伝えるために作られた監督初作品の「日本と原発」は、昨年のちょうど今頃に封切られてから、既に全国約500箇所にて自主上映がなされています。それに最新の情報も加わった「日本と原発4年後」も、先月より公開が始まっています。  さて、ご発題いただいた幾つかの論点を、以下に少し紹介させていただきます。詳しくはのちに発行される『紀要』をご覧ください。

 まず、原発とは、法律的にどういう問題かというと、一番の問題は大事故が起きた時に、非常に多数の人に深刻な被害を与えるということ。憲法13条で規定されている人格権を侵害すること。それは、昨年5月の大飯原発差止判決で、極めて鮮明に宣言された。憲法13条に基づく権利は人格権と名付けられるが、生命維持を基礎とする人格権は、基本的人権の中でも一番重いものとされている。それに比べると、例えば経済的自由という他の人権は、基本的人権の一つではあっても、生命維持を基礎とする人格権には劣後する。

 次に、原発の被害とは何かというと、具体的に言うと放射能被曝の問題。福島で子どもが甲状腺ガンになった時、それと原発事故で発せられた放射能と因果関係があるかということについては、なかなか立証が難しい。しかし疫学的な線形関係、比例関係があるのは確かで、大量の放射能が福島原発事故によって放出され、その地方に小児ガンが発生したのであれば、それは逆にその原発事故と関係ないということが立証されない限り、原発事故と関係があるのだと認定することは人倫にかなった認定方法ではないか。そういうふうにしないと、若い世代を放射能から守ることはできないだろうと思う。

 また、なるべく放射能による被害を過小評価しようとするのが原発推進派の傾向だが、大飯原発差止裁判判決の中で樋口裁判長が述べたように、具体的な因果関係というのはわからないという議論があるけれども、しかし人々が放射線および放射能による被害を主観的に恐れているということは確かであって、そういう主観を持つ人が多数いて、その結果、故郷を去る者が多いということは客観的な事実であって、その客観的な事実が、故郷を破壊するという非常に大きな放射能の害の一つである。

 もう一つ、重要なこととして、原発と宗教、倫理を考える時に、日本で非常に欠けているのは倫理的宗教的観点である。日本の脱原発論争は、約9割が経済論争。特に原発推進派から言われる推進の理由が、もう殆ど経済的な観点からだけで、非常に変。有名なことだが、ドイツが福島第一原発事故を見て、急速なる脱原発に大きく舵を切ったのは、「倫理委員会」の存在が大きいが、そこに原子力の専門家は殆ど入っておらず、倫理学者や宗教学者、宗教家が入って真剣に論じて、本当に危険で人類を滅ぼしかねない原発はもうやめるべきだと言った。また後世に与える核の問題、使用済み燃料の処分も含めて子孫に対する責任という観点からやめるべきと言った。そういう論争が日本では殆ど行われていないことは非常に妙だし、そこが非常に欠けているところではないか。

 以上、他にも大切な提題を幾つもいただきましたが、それはまた『紀要』にて。次の研究会にて発題の部は終わり(担当は内藤)、年を明けてから、最後にまとめの座談会を予定しています。今までの歩みのお支えを、ありがとうございました。

(ないとう しんご/日本福音ルーテル稔台教会牧師)




「沖縄における性暴力と軍事主義」研究会報告
研究会座長 山下明子

 私たちの研究会は2年目に入りました。毎回の研究発表の内容を繋ぎながらテーマの視野を広げるようにしています。沖縄でのフィールドワークと富坂での公開セミナーはメンバーも交流を楽しみながら豊かに積み重なってきています。

 5月に行われた富坂での第5回研究会では、川田文子さん、主事の大嶋果織さん、そして私が発表しました。

 川田さんの報告は「日本軍慰安所制度とたま子さん」について。「慰安婦」を公娼・売春婦として日本の責任を否定する議論がありますが、公娼制度はいかに取り繕っても人身売買でした。「慰安婦」にされたのは日本語を理解できない植民地の女性や前借金を返す目的の芸娼妓でした。川田さんが沖縄で出会った元「慰安婦」のたま子さんは日本人か朝鮮人か不明ですが、朝鮮人だと言われ、そのように生きた女性です。イアンフにされた女性たちは、行政からも捨てられ、国家や国籍、国民を越えて生きざるをえなかったのです。

 大嶋さんの報告は「沖縄における性暴力と軍事主義―キリスト教の立場から」でした。まず日本キリスト教協議会の機関誌(1950―1974年)の中で、「沖縄」「性暴力」「軍事基地」のテーマがどのように扱われているかを検証し、次に、日本基督教団における「合同問題」について説明しました。これらが教会で多発している性暴力事件とそれへの対応の仕方などとどう関係しているか、今後、さらに焦点を絞っていくと具体的に課題が見えてきそうです。

 私は「天皇制と軍事主義―沖縄の「慰安婦」問題から考える」について報告しました。明治以降の近代天皇制は国家・宗教・教育を管理統合したシステムで、ジェンダーが深く関わっています。日本軍「慰安婦」制度は、富国強兵のための性的支配が、国内にとどまらず、植民地と占領地、また植民地同様だった沖縄にも及んだわけですが、沖縄を軸にして考察すると、レイシズムとセクシズムを重ねた天皇制軍事主義の特徴がよく見えます。

 夜の公開セミナーは、安次嶺美代子さんが「沖縄戦から70年―辺野古新基地建設問題と軍事主義」について話され、会場は臨場感に包まれました。

 第6回は8月2、3日に沖縄で行いました。前回、日本のフェミニズムや各界の女性運動が「慰安婦」問題を結節点として連帯できなかった理由が問題になったので、今回は沖縄のフェミニズムと女性運動について宮城晴美さんと高里鈴代さんに報告してもらいました。

 「沖縄のフェミニズム運動―起ちあがった女たち―」というタイトルで、宮城さんはパワーポイントを使いながら戦後の女性運動の歴史を写真付きで分かりやすく説明されました。沖縄の女性運動は米軍による住民の収容、土地の接収、そして米軍基地の問題と深く関わっています。当初、生活の必要から起ちあがらざるをえなかった女たちの闘争でしたが、その後、婦人解放を求める政治的な運動として発展してきています。興味深いのは、「本土復帰」後、男性たちが中央に系列化されたのに対して、沖縄の女性運動は軍事主義による女性への暴力に反対する生の闘いによって世界的ネットワークのほうに積極的に参加してきたということです。

 その世界的ネットワーク化のリーダーでもある高里さんは沖縄の家父長制下で遊郭に売られ、「慰安婦」にされ、あるいは米軍にレイプされた女性たちを、具体的に7人の女性の生涯で比較しながら、その共通性について報告されました。「辻遊郭から慰安婦へ、そして米軍占領下に生きる女性たち―沖縄家父長制下に生かされた女性」です。辻遊郭は沖縄の文化として粉飾して語られることが多いのですが、現実には、親による娘の身売りで成り立っていました。日本の売買春の歴史のなかで、沖縄の家父長下の女たちの苦しみは、母親、娘、そのまた娘へと続いているのが現実です。  翌日、高江と辺野古へのフィールドワークを行い、佐喜眞美術館で「記憶と継承 沖縄と韓国・写真交流展」を観ました。

(やました あきこ/富坂キリスト教センター運営委員)




真の積極的平和に向けて ――富坂リトリートA報告
三村 修

 9月4日に富坂キリスト教センターを会場にして、富坂リトリートが開催された。
 参加者10名。開会礼拝の後、新潟でまちづくりなどをしてこられた清水義晴氏の開発した「未来デザイン」の手法によって、私たちは沖縄共同研修のふり返りと展望の時をもった。

 そもそも私たちは、この共同研修に何を求めているのだろうか。「真の連帯を明らかにしたい」「万国津梁を学びたい」「沖縄の若者と出会いたい」「日本を変革したい」「教会を刷新したい」。つまり、私たちは「主の平和に近づきたい」のだ。

 その理念に照らして、今、何が起きているだろうか。日本では平和のために老若男女が動き出し始めている。一方、私たちの共同研修では、新しい出会い、気づきが与えられ、あるいは旧交を温めなおしながら、「植民地主義にあることの自覚」が与えられてきた。

 その反面、沖縄に米軍基地がある現実は変わっておらず、安保法制が推し進められている。私たちの共同研修は、沖縄から教えられることの方が多く、まだ相互の学びになっていない。教会の中では関心のある人、ない人の温度差が開いている。そして論争を避ける「自分」もいる。つまり「沖縄犠牲のシステムの認知はいまいち」なのだ。

 もし、今、芽生えている平和への動きが育っていくなら、辺野古、高江の米軍基地建設は中止となり、日本は米国の支配から独立し、若い人たちが平和を造り出す主体となり、東アジア共同体が新しい平和の枠組みとして誕生するだろう。教会は世に仕えることによって、生き生きとした教会になるだろう。つまり、真の「積極的平和」が実現する。

 もし、私たちが何もしなければ、どうなるだろうか。ますます自由に意見が言えなくなり、9条が改悪され、若者は戦争へと駆り出され、沖縄戦の記憶も風化し、NCCも無くなり、日本が軍国主義の国になりそうだ。

 日本が軍国主義の国になることなく、真の積極的平和を実現するために、今、私たちがまだ手を打っていないことは何だろうか。

 日本において、神学教育も、社会福祉も不充分なままであることも気がかりではあるが、私たちの中に、あきらめやすい傾向があることも確かだ。一方、私たちは共同研修で学んだことを充分に発信していない。つながりがうすいままである。つまり、一言で言えば、分かち合いが不充分なのだ。

 では、どうすれば、私たちは具体的に分かち合いを進めていくことができるだろうか。

1.神学塾を始める
 平和の視点で聖書を読み、カイロス文書を作成していくのはどうだろうか。また、共同研修には、神学生枠を設けるなどするのはどうか。
2.ブックレットを作成する
 沖縄、聖書、平和に関するQ&A集を作る。文字だけではなく、音楽、動画、漫画などを使った発信方法はないだろうか。
3.賛美歌を作る
 まずは、呼びかけて、歌詞や祈りの言葉、そして、メロディーを集める。歌集ができれば、今度はそれらを様々な集会で用いる、ということが可能だ。

 私たちは、こうしてアイデアを出し合った。
 閉会礼拝では、普天間基地前でゴスペルを歌う会に連帯して、「勝利をのぞみ」を歌って解散した。

 共同研修を共に経験した者たちが、一つの場に集い、ふり返りと分かち合いをする中から生まれてきたアイデア。この小さな場の中から、芽生えようとしているものを大切に育てていきたい。

(みむら おさむ/富坂キリスト教センター運営委員 佐渡教会牧師)




「わたしの兄弟であるこれらの最も小さいものの一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
菊地純子

 去る6月26日(金)19時、NCCドイツ委員会・TCC共催で、山本光一氏を迎えて講演会が開催され、同時にTCC「社会事業の歴史・理念・実践〜ドイツ・ベーテル研究会」の成果刊行物『行き詰まりの先にあるもの―ディアコニアの現場から―』(いのちのことば社)の出版記念会を兼ねていた。悪天候の中、集まったものは多くはなかったが、氏の自然で飾り気のない語りから、現場からの報告と問題把握を聴く貴重な機会となった。

 出版記念の書籍は、ことばにするのもむずかしい、行き詰まっている具体的事柄が詰まっているが、それをことばにしていく試みこそが光への道筋だという思いでの執筆・編集であったという。しかし読者の読後感から、行き詰まりの先がなかなか共有されないという課題を改めて意識されたとのことだ。

 またWCC宣教研究部出版の「教会の宣教的構造」を挙げられて、現在のキリスト教会の課題を取り出された。例えば「病気のままでよいから楽しく過ごそう」と声高に言えるのか。病気になったら「罪人」として、社会から排除されていくのが現実であるが、聖書によれば「あなたには罪がない」との福音に触れた病を得ている人達が真摯な礼拝をできたのであろう。しかしながら、聖書を基本としているキリスト教の現状はどうか。止揚学園の福井達雨氏は在園児について「この子たちにイエスを見る」と言われていたのに、普段から家庭に居場所のないこども達を迎える家の人は「わたしは何もクリスチャンらしいことはしていません」と言われるのである。それはつまり、彼らはキリスト教の礼拝に出席しない、献金をしていないということであろう。このような発言が出てくるような「キリスト教会」の姿でよいのか問わずにはおられない、と氏は語られる。  ご自分の身を切るように所属教派へ課題を突きつけられる姿が印象的であり、講演後の質疑応答を含めて、現在の日本のキリスト教会のディアコニー実践について、どのような葛藤があるかに光があてられた時間であった。

 旧約聖書の一番大事な教えをイエス・キリストは、神を愛し、隣人を愛することだと明言された。この二つは別の事柄ではなく、どちらがどちらより重要だという事柄でもなく、キリスト教の宣教の両輪であり、どちらがかけても宣教の「車」はよろけて、道に倒れてしまうのだ。ディアコニアの宣教の中での位置を確かめずにはいられない。

 11月には戒能信生氏を講演者に続きの講演会が予定されているが、日本のディアコニアの歴史、特にディアコニア活動の対象をどう理解していたのか学びたいと願っている。

(きくち じゅんこ/NCCドイツ教会関係委員長)




山上国際学寮 〜学生、研究者とその家族のオアシス
リヒャルト ディーツ

 私たち家族に山上国際学寮への入寮を勧めてくれたのは、東京大学のひとりの教授でした。以前大学宿舎に滞在していたのですが、手頃な価格で、都心に近い宿舎を探す必要に迫られました。外国人が日本の住居を探すことは容易ではありません。ですから、山上学寮との出会いはとても幸いでした。

 東京ドームに隣接する後楽園と春日の両駅は、4本の地下鉄の駅として利便性も高く、比較的スムーズに東京都下や横浜、空港まで行くことが可能です。

 これとは別に、親切で心あたたかい接待は大変心地の良いものです。住居に関しては、夜間、休日も岡田所長夫妻がすぐに対応してくれてとても行き届いています。異文化間の複雑な問題も特になく、誰でもサポートを受けられます。数年もの間ここで幸せな日々を過ごせているのもそのおかげです。異国にありながら故郷にいるような気持ちになります。

 さらに、私たちにとって幸いな点は、この学寮で文化交流ならびに教育的なプログラムが実施されていることです。このことを通して、寮生は互いに出会うだけでなく、たとえまだ日本語力が乏しくても日本の文化との交流ができるのです。これは、魅力的な東アジアの文化や日本の歴史をよりよく理解する機会でしょう。

 ここでいくつかの多彩な活動をご紹介します。

 まず、四季折々の散策です。昨年は、鎌倉の各寺院を訪ねることができ、最高でした。荒井仁牧師の素晴らしいガイドをいただき、鎌倉仏教など歴史的背景への理解が広がりました。

 ほかにも魅力的な企画として、生け花や書初め体験が毎年開催されています。書道では自分の名前をカタカナで、難しい漢詩をひらがなで書きました。

 また、年に一度、尺八と琴の演奏会に出かけます。その独特の音色から、春の花々を感じました。琵琶の演奏会と講義も忘れ得ぬ想い出となるでしょう。

 さらに、富坂のクリスマス会に毎年ドイツ人研修生(EMS)が参加していますが、これはドイツをはじめ国際的な伝統のつながりの重要さを示すものです。共に歌ってダンスをするという和気あいあいとしたプログラムは、美味しい和食、ドイツ、アジア料理とともにうまく組み合わされています。参加した者同士が活き活きと語り合う様子は、こういった内容が受け入れられている証しでもあります。

 倫理的な関心、特に広島や長崎の原爆で生き残った方の証言は今も心に強く残っています。日本の歴史の中でも心を深く揺り動かす出来事です。日本において「平和で持続可能な生」の示唆がこの学寮にはあります。異なる国の人間がつながり、相互に刺激し合うことができるのです。  初めて来日するすべての人に山上国際学寮をお薦めしたいと思います。

(リヒャルト ディーツ/東京大学大学院講師・山上国際学寮寮生・原文独語:訳岡田)




富坂子どもの家のご報告
勝間田万喜

 富坂子どもの家は、おかげさまで2015年12月に開所5周年を迎えることができました。開所して、一人目の2歳児の女の子を受け入れてから、現在は1か月に約200人のお子さんが通ってくるようになりました。昨年度から開始した0歳児から2歳児向けの親子グループも毎週なごやかな雰囲気で保護者の方がほっとできる時間となっているようです。幼児グループも暑い夏もほとんど休まず皆元気に通って、秋には近所をてつなぎ散歩で坂道が多い文京区の道をしっかりと歩く力をつけています。今年度に入り、6月には保護者向けに「モンテッソーリ教育で大切にしていること」というテーマで講座を行いました。幼児期には家庭と専門機関の足並みがそろうことがお子さんの安心した生活には不可欠であることを確認しました。また、保護者やご家族の方々に日頃の集団生活のようすを観て家庭でも役立つようによりお子さんの理解をしやすいようにと療育参観(保育参観)期間を設けました。保護者もお弁当持参でじっくり4時間観ていただきます。

 モンテッソーリ講座と、療育参観の保護者の感想の一部を以下に掲載いたします。

<モンテッソーリ講座参加保護者の感想より>
・幼児グループの活動の様子を映像で観て来年度通えたらいいなと思いました。自由な活動中心の療育がいいのかどうかの迷いや不安はありますがいきいきした様子に希望を感じました。(2歳児父)
・ 小さいうちから富坂さんに通う事を決めたのは療育のためと思っていたけど、先生方や他のお子さんと接することで親だけでは教えられないことを娘は学んでいると思う。富坂子どもの家は親である私たちをも支えてくれてどれだけ、心強いか!!(1歳児母)
・ 映像を観ることで子どもの行動や気持ちの理解がより深まりました。子どもたちが富坂子どもの家で自分で考えいきいきと活動している姿が見られうれしく思いました。家庭での過ごし方や子供への接し方で反省点が山のようにありますが、無理をせず今回の講座で学んだことを活かしていければと思います。(5歳児母)
・ これまでの私は子供ができない!ということは何でもかんでもすぐに手を出してやってしまっていました。どこまで手を貸しどこからやらせるか様子を見ながら親子で成長していきたいです。(4歳児母)
・ 日々の子育てに忙殺されたり自分の思いを押し付けてしまうこともあったので寄り添える親でありたいと思いました。(1歳児・3歳児)

<療育参観の感想>
・とても楽しい療育でした。好きな事を自分で選択できお片づけまで。先生方にもしっかり見守り指導していただき家の中では見られない孫の姿を見ることができました。あれもこれも、すわってじっとお話を聞くことも、仲よく遊ぶことも、集中して取り組むこときちんと食事することなど、数え上げたらきりがないほど孫の可能性に嬉しさを覚えました。これからも楽しく遊び学ぶことができる富坂子どもの家にお世話になることを嬉しく思います。(3歳児祖母)
 日々関わる我々スタッフは、こうした保護者の声を励みに、目の前の子どもの育ちに向き合えています。感謝の気持ちを持ちながら保護者の方々の思いに寄り添い、応えられるように「世の光、地の塩」として在りたいと思っています。

※日々の様子はフェイスブックでご覧になれます。

(かつまた まき/児童発達支援管理責任者)




2015年度ISJP研修生より
マーク・ホリスベガー

 私はこれまで30年間スイスで長老教会の牧師をしてきました。20年近く青少年育成活動を中心に、またその後10年は老人施設等でチャプレンとしても従事してきました。そしてこの2年程は、担当教区内地域における宗教間対話活動に携わっていますが、これは元来西洋社会におけるイスラムとの問題から生じたものです。

 そして今年、牧師としての継続教育制度を受ける機会に恵まれ、私は即座に日本での研究休暇を取ることを思いつきました。今回の来日目的は、日常の宗教的阻害行為や未知な文化の理解、各地域教会との関係づくりやアジアの研究者・学徒達の交流、アジアの神学教育機関や教会会衆との交流、そして地域教会の視点から高齢化への対応方法などに触れ、更に学び取った多くの事柄をひとつひとつ写真やメモにまとめていきたいと思っています。

 実は今回の来日の前に、シベリア鉄道に乗り込んでロシア大陸を渡り、モンゴルや中国を経由した後、数日を韓国で過ごして9月1日に京都にたどり着きました。今イースト・エイジャ・ミッションの京都別当町会館に滞在し、NCCのプログラムに参加でき、大変うれしく思っています。

 研修は日本語レッスンから始まり、次に日本の宗教事情やキリスト教の歴史等に触れてゆきました。このほか東北、九州、そして関西地域への研修旅行も大変有意義なものでした。日本で大変敬虔なクリスチャン達と、そして大変敬虔な僧侶達にも出会いました。彼らの知的に高いレベルの「思想」や、それに基づく「儀式」等は、私の信仰や信仰生活をはるかに超えるものだと感じました。このような他の宗教とそのスピリチャリティに接したことにより、私自身の信仰が更に深められ、キリストへの献身の想いを強めました。

 今回のISJPの研修によって、牧師としての職務に深みを与えられました。そしてこれらは今後の私自身のスイスでの他宗教間対話の活動に大いに役に立つことと思います。というのは、実はわたしの母国スイスにおいてもクリスチャンの割合は15〜20%と既に少数派になっており、多くの他の宗教と向き合わなければならないのです。ISJPでの研修の経験は、今後の職務のためにも、本当に有意義なものです。そして今回のこの素晴らしい体験を与えて下さった関係者の皆様に深く感謝しております。

(まーく・ほりすべがー/スイス人牧師・EMS研修生/原文英語:訳金子)




編集後記
 先日、安納献さんから、フォーマル・コンセンサス・プロセスという会議の方法を教えてもらった。 その会議の中で、進行係の人が繰り返す質問がある。それは「何か気がかりなこととはありますか」というもの。 この質問には、その場にいる人たち全員のニーズを大切しようという意図がうかがえる。 「何か気がかりなことはありますか」と互いに聞きあう社会は、お互いがより満たされていく社会だと思う。(三村)



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